世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
日本国憲法の成立と「8月革命」説
(明治大学 名誉教授)
2021.03.01
日本国憲法は明治憲法の改正により成立したものであるが,実質的には新たに主権者となった国民が新憲法を制定したのであるとの見解が今日まで広く受け入れられている。同見解は,日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾したとき天皇主権は否定されたのであり,その瞬間に法的には「革命」が生じたという理解を背景としている(高橋和之・日本国憲法解説 高橋和之編『世界憲法集』(岩波文庫)所収)。
このような見解を「8月革命説」と呼ぶが,同見解については,第一にポツダム宣言の受諾がいかなる意味を有するものであったのか,第二に明治憲法改正の「内発的・自主的側面」はどの程度あったと解することができるのかが検討される必要があろう。
ポツダム宣言受諾とハーグ陸戦法規
日本政府はポツダム宣言受諾に際して,同宣言の条件中には「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」同宣言を受諾するとの申し入れをしており(8月10日付東郷外務大臣「ポツダム宣言受諾通告」),これに対する回答は,(1)降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のため其の必要と認むる措置を取る連合軍最高司令官の「制限の下に置かるる」ものとする(以下「従属する」という),(2)最終的の日本国の政府の形態は……日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす,というものであった(8月11日付米英ソ中政府の日本国政府に対する回答。(2)が国民主権を意味する(宮沢俊義「日本国憲法誕生の法理」同氏著『憲法の原理』所収))。
ここで,当時の日本の法的状態を国際関係の観点からみておけば,明治45年のハーグ陸戦法規(陸戦の法規慣例に関する条約)の付属書「陸戦の法規慣例に関する規則」43条は「占領者は絶対的の支障なき限り占領地の現行法律を尊重して……施し得べき一切の手段を盡すべし」と定めていて,連合国最高司令官には被占領国日本の法律を尊重する義務があり,日本の法律制度を思うがままに変えることが許されていたわけではない(占領下の日本の法令には国法と連合国最高司令官の指令に係る管理法令の二系統があった)。連合国の占領軍は日本国民の間における民主的傾向の復活強化への障礙が除去され,責任ある政府が樹立せらるるに於いては直ちに日本国より撤収せらるべきものであった(ポツダム宣言10及び12項参照)ことからいっても,このことは当然であった。
こうして,天皇は連合軍最高司令官の従属下にあったとはいえ,連合国の直接占領下におかれたドイツとは異なり天皇と日本政府は存続しており,明治憲法を改正するにあたっては依然として「勅命を以て議案を帝国議会の議に付」されるべきものであり(明治憲法73条),政府法案は勅裁を経た後,枢密院,帝国議会,貴族院で慎重に審議が重ねられ,最終的に天皇の裁可を経るべきものであった。連合国最高司令官の被占領国日本の法律制度に対する関与は,民主的傾向の復活強化のためのいわゆる「内面指導」ないし「非公式の勧告」の範囲内のことでなければならなかったといわなければならないであろう。
明治憲法改正における自主的側面
明治憲法は明治22年に制定されている。緊迫する国際情勢のもとで明治維新を成し遂げ,富国強兵への道を歩む中で,治外法権を終結させ,関税自主権を回復するには「欧米のキリスト教国」から「文明国」と認められる必要があり,そのためには憲法を含む一連の法典編纂を行って「法治国家law-governed countryの仲間」となる必要がある中での憲法制定であった。そのような事情もあって,明治憲法においては,天皇が主権者として統治権を総攬し(明治憲法4条),立法には帝国議会の協賛(同5条),行政には国務大臣の輔弼(ほひつ)(同55条)をそれぞれ要するものとされ,陸海軍については天皇の統帥権が政府からの独立する(同11条)ものとなり,基本的人権については(例えば,同29条の定める言論の自由のような精神的自由についても)「法律の範囲内」での保障とされた。このような明治憲法のもとで,政治については政党政治(多数党の党首が首相となる)が十分に成長することができず,昭和前期には政党も解散することとなって統帥が国務を包含する形での軍部主導の政治に容易に転化した,経済については価格機構の機能する市場経済秩序が成長しえず,財閥中心の経済体制が形成された,労働者や農民の権利は十分に保護されず,基本的人権の保障も極めて不十分なままであった。
以上のような明治憲法の運用に対しては,それなりに成長を遂げた「日本的市民社会」の側からするさまざまな改革の気運が生じており(小作争議調整制度や労働組合法の立案など),提出された明治憲法改正の政府法案はこのような国民各層における改革の気運に答えるものであったと言えるように思える。政府法案の議会での審議では日本側の主導性が発揮され,その課程で,当初の政府提案とは真反対となるような修正もおこなわれたのであった。その一例は,憲法9条である。すなわち,憲法9条2項に「前項の目的を達するため」が付加され(芦田修正),「前項の目的」が9条1項の「国際平和を誠実に希求し」を受ける解釈(第1説)のみならず,「国権の発動たる戦争(侵略戦争―筆者)……の放棄」も受けうるような解釈を可能とする(第2説)ように改正されたことである。これにより,9条は「自衛戦争の権利」までも放棄する条文(これは第1説で,日本の自衛権の行使は国連に任される(国際連合憲章42条参照))としてのみならず,自衛戦争の権利は当然日本国に留保されているという解釈の余地が残されることとなった。この第2説により,憲法9条は不戦条約(昭和3年の戦争放棄に関する条約)との整合性を確保されることになったのであり,これは,国際条約尊重義務を規定する日本国憲法98条2項のもとでは当然のことであった。後に最高裁は第2説を採用した判決(砂川事件判決)をおこなっている。
明治憲法改正の非革命的性格
明治憲法改正は,このようにハーグ陸戦法規の枠内で,連合国最高司令部(GHQ)の「内面指導」によるものとはいえ,日本政府と議会の相当程度の自主性のもとでおこなわれたものといえよう。
改正条項中,象徴天皇に係る規定(憲法1条)についても,主権は天皇を含めた国民全体にあるという理解のもとで(衆議院での審議における政府答弁),天皇が日本国民統合の象徴となるという天皇の在り方を受け入れるというある種の「ご聖断」があったものと考えることができるように思われる。それゆえ,この点憲法制定権力の移動は法的にはあったといえようが,それは「革命的」というよりは平和裏に行われたと解しうるものではないであろうか。昭和天皇には新憲法施行に際しての次の御製がある(『昭和天皇実録 第10 自昭和21年至昭和24年』321頁)。
うれしくも国の掟のさだまりて
あけゆく空のごとくもあるかな
昭和天皇の第二次大戦における軍事的敗北に至るまでの苦悩には大変なものがあり,この御製は,そのような時代が去って改正憲法のもとで真に望ましい時代が到来したことを大いなる喜びをもって迎えたことを素直に表明しているように思えるのである。
いまや70年余の時を経て,明治憲法の改正についてGHQ憲法であるとか押し付け憲法や与えられた憲法であるとかといった性格づけは見直すべき時期に来ているともいえよう。同改正には,ピンチを逆手に取ってチャンスに変えた(明治憲法の抱えた諸問題の一挙解決)日本国のしたたかさをむしろみるべきではないかとも思えるのである。日本国憲法は今後とも必要な改正は躊躇なく行っていくことは当然のことであるが,それは押しつけを跳ね返すといったものではなく,国際情勢の変化に応じて所要の改正を淡々と行うというものであるべきであろう。
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