世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1774
世界経済評論IMPACT No.1774

9回ウラの攻撃:WTO改革

安部憲明

(外務省経済局 国際貿易課長)

2020.06.08

 正月に手帳に書き込んだ年間予定をひとつ,またひとつと消しながら,いまだに夏の甲子園だけは消せずにいる。檜舞台を失った高校球児たちの無念を思えば,大人たちは,幸いにして延期できたこの先の行事に向け,気力をいや増して臨まねばなるまい。

 本来ならば,本日6月8日から4日間,カザフスタンで世界貿易機関(WTO)の第12回閣僚会議が開かれる予定だった。これは,WTO改革を前進させる格好の舞台となるはずだった。WTOは1995年の創設後,今年で四半世紀を迎えた。多角的自由貿易体制の制度疲労は誰の目にも明らかだ。

 WTOは,次の3つの機能不全が負の連鎖に陥って久しい。

 第一に,現行のルールは,経済のグローバル化やデジタル化,地球温暖化などの地球規模課題に十分に対応できていない。電子商取引や産業補助金のほか,「持続可能な開発目標(SDGs)」で本年中を期限とされた漁業補助金のルール交渉を急ぐ必要がある。貿易ルールの「立法機能」にこれ以上の停滞は許されない。

 第二は,ルール実施,いわば「執行機能」の緩みだ。ビジネス環境の透明性は,すべての加盟国が自国の貿易措置を情報公開し,WTOへの通報義務を果たすことで初めて担保される。しかし,合意当時の曖昧な文言や時代遅れのために大きく空いたルールの穴をすり抜ける慣行が,跋扈して久しい。新しいルール作りと並行し,現行の約束事を履行させる制度の綻びを直すことは急務だ。

 第三は,紛争解決手続の麻痺である。WTOの第二審に当たる上級委員会は,加盟国が「立法」しないゆえに生じた規範の穴を,実質的に法を書くことで補ってきた。この「司法的」慣行を,欧州は支持する一方,米国は裁判官然とした審理のあり方を「権限踰越(オーバーリーチ)」であると激しく批判してきた。その対立の結果が,昨年12月以降の上級委員会の機能不全だ。必要に迫られた欧州連合(EU)らは,自前の解決方法で空白をつないでいる。WTO創設当時「王冠の宝石」と呼ばれた紛争解決機能への信頼を取り戻すためには,ここはその場しのぎではなく恒久的な解決が必要である。

 課題山積のここに来て,WTOは,新型コロナという暴風雨に煽られている。新型コロナがなかりせば,腰を落ち着けて本来取り組んでいたであろう各種改革は,閣僚会議の日程すら決まらないまま,モメンタムを失い漂流している。5月14日,アゼベド現事務局長は,荷物の重さに耐えかねたかのように任期を1年残し,本年8月末での辞任を表明した。9回表,WTOのピンチもここに極まれり,の観がある。

 しかし,新型コロナ危機とWTO改革は矛盾しない。それどころか危機脱却の反発力を活かそうじゃないか,という逆転の発想もある。改革は,ある日の会議場での握手と拍手で実現するものばかりではない,この瞬間をどう過ごすかが改革そのものなのだ,と。

 どういうことなのか。

 短期的には,極めて不正常な状況下であればこそ,各国は新型コロナ対応の緊急措置の通報を励行し合い,履行監視の実効性を高めることが出来る。「通報」と聞くと,警察へのそれのように,発見者が怪しい行動への取締りを当局に求める行為と思われがちであるが,WTOの通報(notification)とは,措置をとる加盟国がその概要を,WTO事務局を通じ他国に通知・報告する協定上の要式行為である。WTOには,5月末現在,135件の通報が寄せられている。

 中期的には,新型コロナによる貿易の激減を「逆バネ」とすべしとの期待だ。加盟国は,サプライチェーンの強靱化をも念頭に,投資円滑化,サービス国内規制,電子商取引等の分野におけるルール交渉を加速すべきだ。各国が通報した措置の中には,これまで文書で行っていた認証手続を接触防止のために電子化したように貿易投資の円滑化に資する措置もある。同じような取組が後続し国際標準に結晶化されれば,まさに「コロナ禍転じて福となす」成功事例となろう。

 さらに,特定の国の措置がWTO協定違反だとして紛争解決手続に持ち込まれることになれば,いよいよ機能不全の実害が生じるので,改革の素案作りに向けた機運が再び高まる可能性がある。必要は発明の母,というわけだ。

 第12回閣僚会議は手帳の中でまだ延期先を探しているが,ひとつ確かなことは,11月の米大統領選挙後,そして,この秋にも任命される新事務局長の下で仕切り直しとなることだ。

 ピンチのあとにチャンスあり―。野球を少しでも知っている人には当たり前のことだが,9回ウラの攻撃機会は,引き分けか負けている試合にのみ存在する。後攻チームは,ここで得点しなければ分けか負けしかない。WTOが逆境を切り抜け,危急の時に有用性を発揮し,昨今の国際協調への批判や懐疑に対する反転攻勢をかけられるよう取り組みたい。

[参考情報]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1774.html)

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