世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
RCEPとインドの思惑
(拓殖大学 名誉教授)
2019.11.18
去る11月4日,バンコクでASEAN各国,日中韓,それに印豪ニュージーランドのアジア16カ国の首脳会議が開催され,東アジア地域包括的経済連携(RCEP)をめぐる交渉が行われた。RCEP交渉は2013年より開始されており,今回,それが実現すれば,世界全体の人口の48%,GDPの32%を占める巨大な自由貿易圏が誕生することになったはずである。しかし結果的にインドからの賛成が得られず,年内妥結は見送られることになった。何故,事前の予想に反してインドは反対に回ることになったのか,また今後の成立の見通しはいかなるものか,以下,検討してみたい。
意表を突いたインドの翻意
今回,RCEP首脳会議に参加した国々の間では全20章の条文内容について大方合意を見ていたが,唯一インドのみ,「極めて重要な問題が解決されていない」という理由でRCEPに参加できない旨の立場を表明した。インド国内ではRCEP参加について根強い慎重論が展開されていたものの,事前の大方の予想では,インドはRCEPの参加に踏み切るものと期待されていた。実際,RCEP会議開催の10日前にインド政府任命の貿易に関する高級諮問グループの報告書が提出されたが,そこでは,インドの輸出額を2018年の5000億ドル(サービス輸出を含む)から25年まで倍増させるとの目標が提示された上で,インドがRCEPに参加しないことになれば,インドが大規模な地域市場から締め出されることになり,それはインドの取るべき選択ではないとの主張が展開されていた。
RCEPを所管するピユシュ・ゴヤル商工大臣の発言においても,FTA(自由貿易協定)を締結するに際しては国内産業と国民のすべての利益が保護されなければならないとしながらも,他方ではインドが世界から孤立させないためにもFTAにまつわる心理的恐れは払拭されるべきであるとの主張がなされていた。そのためインド代表団がバンコクに向かう際には,インドの有力各紙の間ではインド政府がRCEP参加への決断を下すとの見方が有力であった。実際,11月4日当日のRCEP交渉の直前,インド首相府はモディ首相が「インドがRCEPへの参加渋っているとの見方を払拭すべく努力しており」,「インドはウィン・ウィンの形でRCEP交渉が包括的でバランスと取れた結果をもたらすことにコミットしている」との声明を発表していた。このことからしても,インド政府がぎりぎりの段階までRCEP参加への可能性を探り,最終判断を先延ばしにしていたことが窺われる。
最大の懸念は対中貿易赤字
APECの加盟国ではないインドにとって,RCEPへの参加は,「アクト・イースト政策」を掲げるインドにとって大きなステップである。RCEPに参加することになれば,①すでに締結している複数のFTAがもたらすスパゲッティ・ボウル現象の解消につながる,②アジアの地域生産ネットワークに結合できる,③ITサービスなど比較優位産業が新たな市場アクセスの機会を見出すことができる,など多くの便益を享受することが可能となる。しかしながら他方において,インドが最も懸念していているのが貿易赤字の拡大である。これこそインドが最終的にRCEPへの参加を見送った最大の要因である。
インドはこれまで東アジア諸国との間で締結したFTAには,対タイ(アーリーハーベスト),シンガポールCEPA,ASEAN・FTA,韓国CEPA,マレーシアCEPA,日本CEPAが含まれているが,いずれの場合においてもインドの対外貿易は赤字になっている。ちなみにRCEP14カ国との間での貿易赤字は,2018年度現在,貿易赤字全体の57%を占める1052億ドルになっている。このままRCEPに加盟すれば,赤字幅はさらに拡大するのではないかとのインド側の懸念はあながち無視できないものがある。
とりわけ留意されるべきは,対中貿易赤字である。中国との間ではFTAを締結していないにもかかわらず,印中貿易は日印貿易の5倍の大きさに拡大しており,中国はインドにとっての最大の輸入先になっている。2018年度の対中貿易赤字は前年度に比べて幾分減少したものの,それでも貿易赤字全体の29%を占める536億ドルに及んでいる。中国製品はスマホや通信設備を含む幅広い分野でインド市場に浸透している一方,インドが国際競争力を有する医薬品やITサービスについては中国の非関税障壁に阻害され,中国市場への進出拡大が難しい状況にある。
このためインドは事前協議を通じて中国の非関税障壁の改善,さらには中国からの急速な輸入拡大への措置としての緊急輸入制限措置(セーフガード)の導入を求めていたが,満足できる成果が得らないまま,首脳会議を迎えることになった。今年4-5月の総選挙でモディ政権は予想を上回る大勝で再選されたが,折しもインドは経済成長のスローダウン,失業率の上昇に見舞われ,さらには10月に実施されたマハラシュトラ,ハリヤナでの州議会選挙では,与党のインド人民党(BJP)は第1党の座を維持できたものの,議席数を減らしたという不本意な結果に終わった。そうした国内事情をも踏まえて,モディ政権は土壇場においてRCEP参加を見送ったものと容易に推察される。
求められる日本のリーダーシップ
インドがRCEPに署名することに難色を示したことに伴い,元来,「ASEAN+3(日中韓)」の枠組に基づいて,RCEPでの主導権を握りたいとしてきた中国はインド抜きでのRCEPをスタートさせることを提案した。これに対して日本は「インド抜き」での合意は考えられないとの主張を貫いたため,バンコク会議では2020年での署名を目指し,協議が継続されることになった。日本はアメリカが離脱したにもかかわらず,今年1月に発効した「環太平洋パートナーシップに関する包括的かつ先進的な協定」(TPP11)の成立に漕ぎつけ,広域自由貿易圏形成に強いリーダーシップを発揮している。日印両国は特別戦略的グローバル・パートナーシップの関係にあり,インドが最も高い信頼を寄せているのは外ならぬ日本である。高い成長力と巨大市場を有するインドをRCEPにつなぎとめる上で,インドが頼りとしている日本がいかなるリーダーシップを発揮するのか,大いに注目されるところである。
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