世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3821
世界経済評論IMPACT No.3821

力を未来へ紡ぐ:ベトナム南北統一50周年

グェン トゥイ

(千葉商科大学 准教授・アジア未来協会 会長)

2025.05.05

 1975年4月30日,ベトナムは南北統一を果たした。平和の息吹を届けるように,その年に産声をあげた子どもたちは,今年50歳を迎える。私もその中の一人である。

 私は,戦争の悲しみを学校の教科書や書物,詩から知るとともに,故郷に残された数々の傷跡を通じて,より深くその悲痛を感じることとなった。

 私の幼少期は,ベトナム中部にある風と陽光に満ちた地の家で静かに過ぎていった。戦後,村の人々は懸命に働き,農業生産に従事していた。田畑での作業を終えた夕暮れどきには,青年たちが口笛を吹いて村の娘たちを呼び集め,男女が恋歌を交わす集いが開かれていた。月明かりの下でギターの音色と若者たちの歌声が溶け合う夜―それは私にとって今も記憶に鮮明に残る“コンサート”である。子どもたちが雨の中で笑いながら水浴びをしていた姿,青く広がる田んぼや畑―それらを思い浮かべるだけで,胸が郷愁で満たされる。

 しかし,戦争が終わり銃声やヘリコプターの音こそ聞こえなくなったが,その田畑や丘陵には未だに地雷や不発弾が埋まっており,人々の生活を脅かし続けている。道端で輝く信管付きの薬莢に目を奪われた無邪気な子どもたちが,暴発から犠牲となることもあった。

 幼少期に耳にした大きな爆発音の恐怖は今でも脳裏から離れない。その音のあとには,村の誰かが手足を失い,あるいは障がいを背負って生きていくことになるからだ。こうして私は,戦争が残した苦しみを,身をもって理解するようになっていった。戦争が終わって残されたのは,貧困だけでなく,ときに未来さえも奪っていったのである。

 私の村には腕を失った子どもがいた。その家族は貧困に苦しみ,その子は生涯,職に就くことも働くこともできなかった。50年という歳月が流れても,新聞には未だに不発弾のニュースが報じられる。住宅建築のために基礎を掘っていたところ地下2メートルから不発弾が見つかったり,大規模なインフラ整備においては,工事の前に地雷撤去が必須とされたりするのである。

 ベトナム政府は数十年にわたり,戦争の遺物である爆発物を処理する活動を,水面下で粘り強く続けてきた。戦争の終結は,銃声が止んだ日で終わるものではない。土地を安全なものに戻すために,そして真に平和の中で生まれた世代が安心して生きていけるようにするために,多くの時間と労力が費やされている。

 まだ大学院生だった2000年11月16日,ビル・クリントン氏がアメリカ合衆国大統領(当時)としてベトナムを初めて公式訪問した。多くの人が不安と期待の入り混じった思いでその訪問を見守り,各種メディアも報道していた。アメリカの友人たちは私に問いかけた。「あの悲惨な戦争のあと,ベトナムの人々はアメリカ大統領をどう迎えるのか?」と。しかし,ベトナムは過去の全てを受け入れたうえで前に進む道を選んだ。戦争によって多くを失った民族だからこそ,平和の尊さを深く知っている。過去に縛られず,痛みを未来への障害とせず,たとえ,その痛みが今なお身の回りに残っていたとしても,ベトナムは,クリントン大統領を温かく,誠実なもてなしの心で迎えた。それは世界に対する静かな宣言でもあった。すなわち,ベトナムは平和を望み,未来へと歩みを進め,相互理解と共有,そして国や民族の枠を超えた尊重を重んじている,ということである。

 2004年,私はベトナム農村の貧困問題をテーマに博士論文の執筆にとりかかり,その一環でベトナム中部の調査に従事した。母国が平和を取り戻してからおよそ30年が経ち,暮らしは徐々に変化し,戦争の傷跡も和らいだように思えた。人々の生活が以前より良くなっている様子を目にして,私は喜びを覚えていた。しかし,調査で訪問した世帯の女性が会話中にふと遠くを見つめ,静かに語った。

 「戦争は終わったけれど,私の中ではまだ終わっていません。私は今でも,毎日その戦争と闘っています。」

 彼女の視線の先を見た。そこには片手を失って松葉杖で立つ男性と,その傍らに枯れ葉剤(エージェント・オレンジ)の後遺症を抱える2人の子どもがいた。

 ホテルに戻る車の中,私は何も言えず,ただ窓の外を見つめていた。女性の穏やかな声と眼差しは,今も心に焼きついている。胸が締め付けられるような重苦しさが残った。私は時間では癒せない痛みがあることに気づいた。平和となっても完全には癒されない傷があるのだ。

 戦争の被害とは,命の喪失だけではない。それは,長く続く貧困や傷つき困難となった人々の生活,人生であり,銃を手にしたことすらない次世代の未来をも奪うのである。ベトナムには,あの家族のように,枯れ葉剤の被害に苦しむ人々が今もなお多く存在している。戦争による損失は,一国の物語にとどまらない。それは,構造的な問題―貧困,脆弱性,そして世代を超えた不平等という,長く続く根深い問題をもたらす。彼らが背負うのは物質的な貧しさだけではない。夢や未来,そして世界の正義への信頼すら,失ってしまっているのである。戦争は,銃声が止んだ日で終わるものではない。それは,世代を超えて続く,痛みと苦しみに満ちた,果てしない過程の始まりでもある。

 2025年4月30日の今日,ベトナム政府はこれまでで最大規模の軍事パレードを実施した。その多額の費用をかけた演出や準備段階で生じた様々な制約に批判する声があるかもしれない。しかし,このパレードは,次世代に伝えるためのメッセージでもある。私たちが今日享受しているこの独立と自由は,どれほどの血と汗と涙,犠牲によって得られたものなのかを,決して忘れてはならない。戦争は勝っても負けても,そこにあるのは極限に至る喪失と苦痛である。私たちはそれを理解し,分かち合い,民族の平和と自由のために心を寄せ合わなければならない。そしてこのパレードは,世界に対するメッセージでもある。この民族は,いかなる苦難を経験しても,祖国を守る覚悟を決して失わないということ。ベトナムの強さは,軍の力だけではない。全国民の人々の心,歴史を忘れないという意志の中にこそ,真の強さがあるのである。

 今回のパレードには,中国,ラオス,カンボジアの軍隊も参加した。それは,地域の団結,ベトナムの外交政策の成熟,そして「平和・安定・繁栄のアジア」という共通の願いを体現する,力強いメッセージでもあると思われる。

 私は50年間,ベトナムの歩みに寄り添ってきた。戦争という困難な時代を経て,ベトナムは「ドイモイ(刷新)政策」によって経済改革を進め,グローバル化の波に乗った。現在,ベトナムは「20年後に高所得国になる」という大きな国家目標を掲げ,世界へと飛躍しようとしている。祖国統一から50年が経過した今,この半世紀の道のりの中で戦争による痛みの記憶は徐々に薄れ,それに代わるように未来への希望が人々の心に強まっている。

 今日2025年4月30日,私の母国ベトナムは歓喜に満ちている。老若男女が,赤地に黄色い星が描かれた国旗を手に,誇りを胸に街を行き交い,SNSには「南部解放・国家統一50周年」のロゴが誇らしげに並んでいる。50年前お祖母ちゃんがその日に何をしていたか気になって聞いたことがあった。

 「おばあちゃん,国が統一されたあの日,みんなが独立を喜んでいたあの日,おばあちゃんは何をしてたの? そして,なぜ戦争のことを私に一度も話してくれなかったの?」

祖母は,優しく笑みを浮かべながら,私の目を見つめてこう言った。

 「その日かい?ここに座ってたよ。ただ,ヘリコプターや爆弾の音がしない一日の静けさを味わっていたのさ。戦争のことを話したくないんだ。いつまでも思い出してたら,生きていく力なんて残らないだろう?」

 本当に戦争を経験した人にしか分からない,「静けさ」の神々しさ,「沈黙」のありがたさがあるのである。私の祖母,そして多くの高齢となるベトナム人は,二つの戦争を生き抜いてきた。心に深い傷を負ったはずなのに,彼らは語る代わりに,沈黙を選び,そして希望を育ててくれた。彼らは一度たりとも私たち子や孫に,憎しみや恨みを教えなかった。だから子どもだった私は,「きっと忘れてしまったのだろう」と思っていた。しかし今は分かる。きっと,忘れようとしたのである。そうしなければ,生きられなかったのだ。

 「思い出してばかりいたら,生きていけない」とう短い言葉が,今では私の胸を締めつける。平和のために戦うとは,過去の痛みにしがみつくことではない。平和とは,痛みを乗り越え,相互理解の道を歩み,国の未来を共に築くための,新たな旅の始まりなのである。

 今から50年前のこの日,祖母はただ静かに座って,平和の尊さを静けさの中に感じていた。そして50年後の今日,かつての幼い孫だった私は,白髪が混じりようになり,日本の大学のキャンパスでこの歴史の一瞬のために筆を取っている。祖母のことを,母国のことを,静かに思い出しながら,心の奥底から,祖国のために命を捧げた先人たちへの感謝を,そして,今私が住み,働く日本という国が,これまでベトナムの復興と成長の道をともに歩んできたことへの深い感謝を,改めて胸に刻んでいる。

 たとえ自分が小さな塵のような存在であっても,「私が恩を受けた二つの国のために,引き続き貢献できるような人間になろう」,そう,自分に言い聞かせている。あの日,涙に溺れないように,沈黙の中でいた人たちがいたからこそ,今,私たちは笑うことができている。戦争によって多くを失った民族だからこそ,平和の尊さを深く理解している。過去に縛られることなく,痛みが未来を阻むことのないように,そして,その尊い沈黙に,応えられるような生き方をしていきたい。50年を振り返って,私は学んだ。戦争は肉体に傷を残すだけでなく,人の心の奥深くに静かに傷跡を残すのだ。そうした傷は,何世代にもわたって民族の記憶として刻まれることがある。それでも,その古い傷を,新たな憎しみの理由にしてはならない。

 そして,平和という一見すると当たり前のように思えるその静けさこそが,人類があらゆる理解と分かち合いをもって守るべき,最も尊いものなのである。今日,私はただ願っている。この世界が―祖母がかつて願った世界が―もう二度と銃声や爆音に覆われることなく,憎しみによる涙も流れることなく,ただ人々が思いやりを持ち,他者を理解し分かち合って,共に幸せに生きられる世界であるように。

 祖母の夢は,ただ一つ「ヘリコプターの音も,爆弾の音もない日を迎えること」であったのかもしれない。私の夢は今日,責任ある国家としての発展を目指し,平和を当然とせず,自由を当然とせず,一歩一歩大切に歩むベトナムを見ることである。そして,それ以上に,この世界が互いに理解し合い,戦争も死も傷もない世界となることを願っている。

 私は,祖母との会話から,そして中部の田んぼで突然に響いた爆音から,平和とはいかに尊く,脆く,そして守り継ぐべきものであるかを深く胸に刻んだ。私の中には,戦後の記憶の断片,寛容の心,そして「過去に誠実であり,今に力を尽くし,未来を切り拓こうとする」揺るぎない思いが,今も静かに息づいている。私は,そんな思いとともに,今日も未来に向けて書き続けている。(2025年4月30日東京にて執筆)。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3821.html)

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