世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3047
世界経済評論IMPACT No.3047

風土は変えられない:しかし変えなければならない

末永 茂

(国際貿易投資研究所 客員研究員)

2023.07.31

 風土を変えるためには革命によらなければならない。しかし,それは根底からの改造であるため,多くの人々が犠牲になったり,大量の落伍者を生み出し,時として一社会の崩壊を招きかねない。ハイエクの指摘である。フランス革命もロシア革命の時も,明治維新の秩禄処分や戦後農地改革もそうだった。社会の激変は新たなチャンスを生み出す一方で,精神疾患を患う人々も少なくない。幼少の頃の記憶である。そして,ソ連崩壊からプーチンの台頭,そして現在進行中のウクライナ戦争の過程がそのように現れている。歴史の過酷な現実であり,これは避けられないのかもしれない。

 年を重ねれば多少の思いも出てくる。余り正確ではない主観的な回想のようなものも少しは大目に見てもらいたい。大東亜戦争の終結について,井上成美や米内光政らが会談する際,利用したといわれている「料亭小松」(数年前に焼失)のすぐ近くに長らく住んでいたこともあって,米軍基地や軍港の佇まいを身近に感じてきた。毎年,市民は基地内見学できる機会がある。一旦基地内に入ると,そこはアメリカである。さすがに実弾入りの銃を抱える米兵の眼光は鋭い。空気が切り替わる。それに引き換え,我が自衛隊の敷地内での雰囲気は全く異なる。入隊したばかりと思われる隊員の訓練・行軍を見ていると,とても戦争などに動員できる代物ではなく,災害救助隊としても大丈夫なのかと思えてくる。10年以上前に出くわした光景なので,現在は違っているだろうが。

 風土に関しては,最近,企業風土が大変重要なキーワードになっている。違法行為が公然としかも広範囲にブラック企業の中で展開されているようだ。これを改革することは容易ではないだろう。地方の比較的大手の,しかも伝統的地場産業の企業も違法的・犯罪的ではなくても,ワンマン経営が過ぎる事例が横行していると時々耳にする。そんなこともあってか,旧帝大がある大都市の駅周辺の企業や商店はほとんどが県外資本,特に首都圏の企業に制覇されているようだ。地方社会はいわゆる近代化されていないのである。我が国の人口は1億2000万人であるが,その半数以上が3大都市圏に住んでいる。ということは,半数未満の人々は前近代的社会風土が残存している社会で生活していることになる。そして,周辺地域に行けば行くほど自主財源が殆んどないか,地方交付税頼みで財政運営されている。しかも,地方自治の名のもとに,実質議会は機能していない。時々,地方議会での爆睡や議員のモラルハザートの話題がマスコミで取り上げられている。これは氷山の一角であり,もっと根が深く構造的なものである。

 近代システムを移植すればそれが正しく,すくすく育つものでは決してない。畑に種を蒔いてもかなりの労力を注ぎ込まなければ,実になるどころか,全くの徒労に終わるしかない。雑草という強力な住民の意向が,育てたいとする観念を食い荒らすのである。「デジタル田園都市構想」とか「こども未来戦略実現」等々の政策構想は,地方社会の実態を知らない者の絵に描いた餅のようにしか思えない。大災害が頻繁に発生している状況下に於いて,政策ブレーンは今なお,昭和40年代の経済学から解放されていないのではないか,と思えてならない。首都直下の大地震が懸念されている時代に,我が国はもっと国土全般に渡って分散して住まわなくてはならないが,人口の一極集中は留まる気配がない。果たして,超高層ビル化は経済的合理性があるのだろうか。

 他方で,地方の農地は公共事業の名のもとに,急速に劣化している。しかも,高齢社会への急激な変貌の過程で若年層が置き去りにされ,世代交代できない社会を創り上げている。人間が一人前になるためには15年はかかる。いわゆる「元服」がそれであるが,これに対して「数日や数ヶ月の育休」は何の意味があるのだろうか。人類の生育期間は生物学的社会学的に普遍的なものであり,戦時急務の時のように家族に代わって,社会で,あるいはマカレンコ流の集団主義をもって,それを代替・補完できるものでもない。市場経済の成長主義が家庭機能の解体までをも射程に入れなければ,GDPの増額が出来ないというのであれば,それは最早本末転倒でしかない。クズネッツはGDP指標は超歴史的概念では決してない,と1950年代に既に指摘している。

 地球環境の変動が人類の生存を脅かしているのであれば,人口減少社会は評価すべき現象である。繁殖するだけ繁殖し,それを良しとして,その後に戦闘開始を是認して来た両大戦間期の歴史を再び迎えるという愚行を繰り返してはならいだろう。若年層の適切な扱いが不十分なまま,老い先短い層を必要以上に保護するのも考えものである。所得構造の平準化と適正化のためにも,企業の賃金体系や経営陣の所得水準を見直すべきである。なぜトップ層の所得がミドル階級や初年兵より高くなければならないのか? その根拠が哲学的意味に置いても解明されているようには思えない。また,春闘方式なる百年一日の労働組合の取り組みなど,論外である。彼らは時代変動を認識できないのではないか。現役層に依拠しなければ,社会は維持できないことをもっと自覚すべきである。そして,我が国は単に数量的拡大することのみを追求することなく,筋肉質の社会を形成すべきではないか。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3047.html)

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