世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2698
世界経済評論IMPACT No.2698

リトアニアの知の巨人ノルクス

小山洋司

(新潟大学 名誉教授)

2022.10.03

 私は3年前,論文「リトアニアからの人口流出と過疎化」を執筆中,インターネットで資料を探しているとき,ゼノナス・ノルクス(Zenonas Norkus)の著書On Baltic Slovenia and Adriatic Lithuania (2012, Vilnius: Apostrofa) の存在に気づき,早速購入して読んでみた。この書名を見ると,多くの人は戸惑うであろう。実際にはスロヴェニアはアドリア海に面し,リトアニアはバルト海に面しているのに,この書名は逆になっているからである。彼は,バルト三国とスロヴェニアを合理的企業家的資本主義の両極端に位置すると言い,なかでもエストニアとスロヴェニアは「期待以上の成果をあげた国」だと見ている。エストニアはショック療法として知られる新自由主義的なラジカルな経済改革を実施し,他方,ネオ・コーポラティズムの国スロヴェニアは正反対の漸進的戦略をとった。彼はスロヴェニアの経験を高く評価し,もしリトアニアが1992年当時,スロヴェニアのような路線を採用していたらどうなっていたかと問い,このような書名をつけたのである。詳しくは,私の資料紹介(「ゼノナス・ノルクス著『バルトのスロヴェニアとアドリアのリトアニア』」,『ロシア・ユーラシアの社会』No. 1049,2020年)を読まれたい。

 ノルクスは1958年にリトアニアで生まれ,レニングラード大学を卒業した。現在,ヴィルニュス大学社会学研究所の比較歴史社会学の教授である。本書のリトアニア語版は2009年度リトアニア学術賞を受賞した。英語版が2012年に刊行された。その冒頭で彼は,リトアニアの首都ヴィルニュスでは東欧研究所が1930-39年に活動したと記し,ソヴィエト学は冷戦期にアメリカ(フーバー研究所によって代表される)で始まったのでなく,戦間期のポーランド(当時,ヴィルニュスはポーランド領)で始まったと言い,自分はその伝統を受け継ぐ旨述べている。

 彼は社会学者であるが,経済学(近代経済学もマルクス経済学も)や政治学など隣接の科学もよく学び,それらの最新の成果を吸収し,自分の理論を組み立てている。経済学ではホールとソスキス(2007)のVariety of Capitalism(VoC;邦訳は『資本主義の多様性-比較優位の制度的基礎』),アマーブル(2005)のDiversity of Capitalism(DoC;邦訳は『5つの資本主義—グローバリズム時代における社会経済システムの多様性—』),そしてボーレとグレシュコヴィチ(2017)『欧州周辺資本主義の多様性-東欧革命後の軌跡-』などを踏まえ,それらのエッセンスを自分の理論に取り込んでいる。

 彼は旧ソ連のリトアニアで生まれ,育ち,大学教育をロシアのレニングラード大学で受けたので,共産主義社会を内側で体験しており,さらに西側諸国(アメリカを含む)に留学したので,共産主義と資本主義の体制の違いを非常によく知る立場にある。バルト三国はわが国のマス・メディアでは言及されることはめったにない。いずれも日本の県並みの小国にすぎないが,学問や芸術やスポーツの分野ではときどき世界的に第一級の人物が出現する。彼もその人だと考えられるので,ここに紹介するしだいである。

共産主義の構成要素

 この本の目的の一つは,エストニアやスロヴェニアと比較しながら,ポスト共産主義のリトアニアにおける資本主義と民主主義の進化を考察すること(第Ⅱ部)であるが,その前段階として,ポスト共産主義転換の一般理論の構築を目指している(第Ⅰ部)。

 著者によると,共産主義を,a)マルクス・レーニン主義イデオロギー,b)計画化された行政的経済,c)全体主義的または権威主義的な政治的体制を含む社会システムだと仮定するなら,既存の共産主義のための6つの様式を区別することができる。そのうちの次の3つは現実の生活でも観察することができる。

  • 1)中国とベトナム(aとcを保持するが,bを欠落)
  • 2)旧ソ連の大部分の共和国(cを保持するが,aとbを欠落)
  • 3)中欧とバルト三国(a,b,cを欠落)

 政治システムを変えることなく共産主義から離脱することが可能であり,それは中国やベトナムならびに中央アジアで見られたという。

 ノルクスは歴史を重視している。体制転換後の社会を見ると,各国の間でますますその差異が深まる。「共産主義到来以前にどの文明に属していたか,およびその発展レベルにより違いが生じる」と主張して,著者は,次の3つのタイプを挙げている。

  • ①官僚制的=権威主義的な共産主義の国々。チェコや東独のように,共産主義が移植される前に社会的,文化的,政治的に近代的であった国々ではこのタイプの共産主義になった。
  • ②民族的共産主義の国々。社会における反対分子を権威主義的な共産主義諸国ほど情け容赦なく抑圧はせず,彼らが政治的に受動的な立場に甘んじるならば,何らかの市民権を保証し,社会生活のすべての領域を全面的にコントロールすることは差し控えた。民族的遺産と結びついた領域は残され,「民俗的文化」の普及促進がなされた。ハンガリー,スロヴェニア,クロアチアがその例であり,ポーランドは①と②の混合である。
  • ③家父長的共産主義。これに該当するのは,旧ソ連のうち,バルト三国を除くすべての共和国,そしてブルガリアとルーマニアである。

転換のイデオロギー的志向

 ノルクスは,転換のイデオロギー的志向として4つ挙げている。

  • ①継続的志向。共産主義の欠陥や行き過ぎ(たとえば,民族または市場の無視)を是正しながら,共産主義時代の何らかの肯定的な成果の維持を主要な目標とする。共産主義が最も長く生き延び,そして西側の文化的影響が最も少なかった国々に特徴的である。
  • ②返還(復古)志向。これは共産主義以前の,黄金時代と見る経済・政治システムの再創造とポスト共産主義転換の目標を提起する。たとえば,この志向が強い国では転換後の農地改革の際,返還(restitution)方式に基づき農地をかつての所有者もしくはその子孫に返還することが最優先された。
  • ③模倣的志向。これは西側の進んだ政治・経済システムを理想としており,ポーランド,ハンガリー,東独では模倣志向が最初から有力である。
  • ④イノベーティヴな志向。共産主義時代のすべての側面を否定的にのみ評価することを避けるという点では,継続的志向と類似している。同時に,共産主義時代についての批判的な見方では,模倣的志向に類似する。共産主義時代の経験のおかげで,さまざまな点で西側文明またはグローバルな文明に独自の貢献ができるという信念があり,スロヴェニア,中国,ベトナムにおけるポスト共産主義転換のプロセスで見られる。

 バルト三国では,多くの人々が戦間期の1918−1940年を「黄金時代」と考えていたので,返還(復古)志向がしばらく有力であったが,1993年にEUがコペンハーゲン基準を提示して以来,模倣志向が強まった。ベラルーシや大部分の中央アジアでは継続志向が有力である。中央アジアでは返還(復古)は,イスラム法で基礎づけられた社会秩序の復活を意味する。「ロシアでは,それは帝政ロシアの復活を意味する」という指摘は,プーチン主導のロシアのウクライナ侵攻を見るとき,示唆的である。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2698.html)

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