世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2653
世界経済評論IMPACT No.2653

欧州中央銀行(ECB)の本気度:ユーロ圏市場の分断を阻止する新手段は機能するのか

白井さゆり

(慶應義塾大学総合政策学部 教授)

2022.08.29

 欧州中央銀行(ECB)は今年7月に11年ぶりの利上げをして,ゼロ金利政策を撤廃した。ユーロ圏の直近7月のインフレ率は8.9%で,米国の8.5%と並ぶ高さになっている。どちらも2%インフレ目標を大きく超えているが,インフレ事情は欧州の方が深刻だ。原材料価格を含む生産者物価上昇率は,米国では11%だが,欧州では35%にもなる。欧州ではエネルギー不足が主因で生産者物価が上昇しているが,消費者物価にあまり転嫁できていない。その分だけ,欧州企業の生産活動や利益が下押しされている。

 消費者物価への転嫁が抑制されていても,欧州の消費者が直面する状況は厳しい。賃金が米国ほど上昇してないので,実質賃金は米国よりも落ち込みが激しい。

 ユーロ圏の今年の経済成長率は2%台になり,とくにEU最大の工業大国ドイツは,ロシアへのエネルギー依存が大きいがゆえに1%台の成長しか見込めない。冬場にロシアからのガス供給が完全停止すると,ドイツやハンガリーなどの東欧ではエネルギーの配給制となり,一部の企業は生産停止を余儀なくされる。そうなると,欧州の今年の成長率は1%程度,来年にはマイナスに落ち込む恐れがある。欧州の方がスタグフレーションに陥るリスクが高い。

チャレンジングなECBの金融政策

 ECBの最大の課題は,経済構造が異なる19ヶ国で構成されるユーロ圏でどうバランスをとって金融政策を運営するかにある。今年に入り,後の世界的な金利上昇の中で10年といった長期金利は上昇傾向にある。しかし,イタリアやギリシャなどの経済が相対的に弱い国の長期金利の方が,コア国ドイツよりも上昇が激しい。この背景には,政府債務規模の違いがある。政府債務の対GDP比は,ギリシャで190%程度,イタリアでは150%程度にもなり,EUの財政規律で規定する閾値60%を大きく逸脱しているだけでなく,ドイツの70%程度とも差が大きいからだ。

 経済が脆弱な国の長期金利ほど上昇して景気が下押しされる一方で,ドイツなど中心国の国債が安全資産として需要される。2012年の欧州債務危機時ほどの金利差は生じていないが,再び国債市場が分断されて欧州の景気回復を遅らせることをECBは恐れている。

 だからこそ,ECBは幾つかの手を打っている。

 まずは再投資の工夫だ。ECBは,2019年11月にユーロ圏の景気減速が明確になったため,「資産購入プログラム」(APP)を導入し,毎月200億ユーロのペース域内の国債中心に買い入れてきた。2020年3月にコロナ感染症危機が発生するとAPPを継続しつつ,新たに「パンデミック緊急買い入れプログラム」(PEPP)を導入し,ユーロ圏域内の国債など合計1,850億ドル買い入れた。APPではBBB以上の適格格付け基準を満たせないギリシャ国債は対象外だが,PEPPではギリシャ国債も金融政策の効果を高めるためとの名目で買い入れた。

 PEPPは今年3月末に終了し,APPも今年7月初めに終了した。購入した資産は当面残高維持をする予定なので,満期が到来した債券の再投資を続けている。ただしPEPPの再投資については,国債市場の分断を防ぐために柔軟に行うことにした。ECBでは国別の資産買い入れはECBへの出資比率(GDPと人口で決まる)に応じて実施しているため,最大出資国ドイツの国債を多く買い入れている。このためドイツ国債の満期が到来すると,償還現金をドイツ国債に再投資することになる。PEPPの再投資では,ストレスのかかっている国の国債をより多く買い入れ,ドイツ国債などからの乗り換えを決めている。

 そのうえで,7月の理事会ではこれを国債市場の分断を防止するための第1次防衛線と位置づけ,それでも十分でない場合に,後述する4つの条件をつけてストレス国の国債などを大量購入可能な新手段(TPI)を導入したのである。市場の上昇圧力をけん制するためには買い入れ額を事前に定めてない方がよいとして,事実上,無制限に買い入れができる。

 PEPPに関して今年6月から大量な償還が始まったが,実際にECBはドイツ,オランダ,フランスなどの償還現金を,イタリア,スペイン,ポルトガル,ギリシャの国債の投資へ配分した。躊躇ない迅速な対応に市場参加者の間では驚きの声も上がった。

 こうした対応や米国の長期金利が下がったことで,今年6月の大幅上昇局面よりは国債市場も落ち着きを取り戻し幾分低下している。ただし,7月にマリオ・ドラギ氏が率いる連立政権で崩壊して,9月に総選挙を控えるイタリアでは,経済政策の不確実性の高さから長期金利は上昇しており,従来は乖離があったギリシャ国債と並ぶ高さとなっている。

ECBに対する信認と柔軟性のトレードオフ

 前述の4つの条件とは,買い入れ対象国が,①財政赤字を十分削減していないためにEUの過剰財政赤字是正手続きの対象となっていないこと,②マクロ経済に著しい不均衡がなく過剰不均衡是正手続きの対象となっていないこと,③EUのカーボンニュートラルとデジタル化を目的とする投資・構造改革を支援するEU復興基金の基準に沿って健全で持続的な政策を実践していること,そして,④財政の持続性があることである。

 これらのうち,①②③は欧州委員会が判断するが,④はECB理事会が,欧州委員会,欧州安定メカニズム(ESM),国際通貨基金(IMF)などの分析を参考にして,独自に判断する。一見すると厳しい条件をつきつけてフリーランチではないとの印象を与えているが,実際にはかなり緩い基準となる可能性もある(EU自身も①と②について問題国に対して制裁を発動したことはなく,事実上形骸化しているとの指摘もある)。

 一番の問題は④で,果たして国債市場で分断が起きている局面で,しかもEUが①に関して厳しい対応をしていないときに,ECBが独自判断で財政が持続性でないから買い入れはできないとする判断をするのだろうか。

 もう一つの疑問は,ECBは2012年の欧州債務危機の際に特定国の国債を無制限に買い入れ可能な国債購入策(OMT)を新たに導入しており,現在でも活用できるのが何故それを使わないのかである。OMTで問題国が金融支援を受けるには欧州安定メカニズム(ESM)による厳しいマクロ経済政策プログラムを実践する必要があり,政治的に難しいと躊躇する国が多く,実際にOMTを申請した国はなかった。

 ESMのプログラムに対するスティグマがあるため,ECBは使い勝手が悪いと判断して新しい手段TPIを導入したと思われる。だとすれば4つの条件は無条件とみなされないための「工夫」なのかもしれない。

 しかし曖昧さが残ったため,市場によってECBの本気度は試されるかもしれない。ユーロ圏のインフレ率は高い水準が続くとみられ利上げは今年も来年も継続するであろう。長期金利は上昇しやすくなっている。刻々と変わるウクライナ戦争と世界経済情勢の中で柔軟な政策が必要な時代に入っているが,これまで積み上げてきた制度への信頼性を確保しつつバランスをとった舵取りが必要だ。それはECBだけでなく,米国や日本の中央銀行についても言えることであろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2653.html)

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