世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1207

世界経済の社会契約論

西 孝

(杏林大学総合政策学部 教授)

2018.11.19

 ホッブス(Thomas Hobbes,1588〜1679)は,近代国家を正当化する理論として「社会契約」という概念を打ち出したことでよく知られている。それによれば,人々はその自然状態において平等であるがゆえに,各自がその自然権を行使する結果は「万人の万人に対する闘争」の状態になるという。それゆえ,各自はその自然権を放棄し,それを国家権威に委ねることで社会秩序がもたらされる。当時のその国家権威とは「絶対王政」であった。

 それに対してスピノザ(Baruch De Spinoza,1632〜1677)は,人々は自然権を「放棄」しているのではなく,それを「自制」しているのだと考えた。いずれも個人は,自然状態に放置されれば専ら利己的に振る舞うことが想定されている点は同じである。

 後にヒューム(David Hume,1711〜1776)やスミス(Adam Smith,1723〜1790)といった経験論の立場に立つ思想家は,そのような考え方の観念論的性格を批判するとともに,現実において人々は単に利己的であるだけでなく,社会的存在として他人に対する共感や同感をもつという側面を強調した。

 なるほど人間については,私も経験論の立場に共鳴する部分が多い。しかし,国家についてはどうだろうか? いみじくも社会契約論は,個人個人が社会秩序を形成する理論としてよりも,現代の諸国家が世界経済秩序を形成するメカニズムとして理解する時に,その現実性を際立たせるように思えるのだ。

 個人個人は単に利己的ではないにしても,国家は,それ自体が一つの人格ではないがゆえにこそ,「ナショナリズム」という利己性を顕著に発揮する。その諸国家が自然状態さながらに自らの主権を行使すれば,それが「万国の万国に対する闘争」を引き起こすことは,すでに歴史がそれを示しているではないか。

 それゆえ,二度の世界大戦を経る以前から,諸国家は自国の主権を一部「自制」することを通じて,世界に一つの秩序を保とうとしてきた。では,その「自制」した主権を委ねる先は何であるか。一つには国際機関であり,もう一つが世界のリーダーたる覇権国だったのではないか。

 それが覇権国である場合には,覇権国は自ら主権を自制するメンバーであると同時に,その主権の一部を委ねられる対象でもある。「覇権」という権力とはそういうものであろう。言うまでもなく,それはかつてのイギリスであり,戦後のアメリカであった。そしてヨーロッパ諸国はその主権の一部をEUという国際機関に委譲した。

 いずれにしても各国は,その主権の一部を自制,委譲することを通じて,そして覇権国や国際機関がその委譲された主権を調整することを通じて,「万国の万国に対する闘争」を避けてきたのだと考えられるのである。

 しかし国際機関はいずれも,その権限の脆弱性から「リヴァイアサン」にはなれなかった。今日,一部のヨーロッパの国々では,その主権をEUに委譲することが,そしてEUそれ自体が「リヴァイアサン」になることが拒否されている。そしてアメリカのトランプ大統領は,自らリーダーとしての調整役を放棄すると同時に,自らの主権の自制をも放棄して,自国優先主義を建前なしに主張する。

 アメリカがリーダーとしての役割を放棄した「リーダーなき世界」とは,各国が自制した主権を委ねる対象を失った世界である。そこで待っているのは,各国が自制した主権を取り戻すことに躍起になり,それを縦横に行使する「万国の万国に対する闘争状態」である。

 1930年代の世界大恐慌において,リーダーであったイギリスと新たにリーダーになることが期待されていたアメリカが,いかに自国中心主義に陥ることで,その役割を放棄したか。そしてそのことがいかに不安定な世界を生み出したか,識者はその記憶をないがしろにすべきではない。

 しかし,だからといってトランプ大統領個人を非難することは,近視眼的でしかない。自国を優先する,主権の自制の放棄を求める政治勢力は,今やヨーロッパ各国にも見られる。真の問題とは,トランプ大統領やヨーロッパにおけるそのような政治勢力を支持する経済階層,そのような経済階層を生み出すことになる経済状況の存在に他ならない。

 メルケル首相が引退を余儀なくされたのも,彼女のリーダーとしての資質の問題ではなく,そもそもリーダーに主権の一部を委ねること自体を拒否する階層が拡大したからだと思う。もちろん,その階層を育んだ責任は彼女にもある。それは,そのような経済階層を生み出した緊縮政策なのだ,と私は思う。

 しかし,この点を論ずるためには,また機会と紙面を改めねばなるまい。

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