世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.876

「現金の呪い」の呪い

川野祐司

(東洋大学経済学部 教授)

2017.07.17

「現金の呪い」

 アメリカでは,紙幣や硬貨などの現金を廃止すればマイナス金利政策の効果が大きくなるという論が根強くある。ロゴフが著した『現金の呪い』ではアメリカの経済学者たちの考えをうかがい知ることができる。この中では,経済学者が発案する紙幣へのマイナス金利の課金(一部の紙幣を定期的に紙くずにするなど)が市民に賛同されないと嘆いているが,なぜ市民が賛同しないのかわかっていないようだ。また,標準的な(ケインジアンの)マクロモデルでは,金利の引き下げはプラス圏であってもマイナス圏であっても同じように機能する。政策金利は理論上いくらでも引き下げることができ,引き下げれば引き下げるほどインフレを誘発することができる。現金がそのようなマイナス金利政策の効果を削いでいるという。著書の全体に渡って矛盾点が多く,マイナス金利に対する理解不足も見られる(詳しくは,川野祐司「マイナス金利は経済のパラダイム転換を意味するか」『世界経済評論』2016年11月・12月号をご覧いただきたい)が,本稿では現金に焦点を絞って話を進めたい。

どうして高額紙幣を廃止するのか

 『現金の呪い』では,硬貨や紙幣をすべて廃止するのではなく,100ドル札のような高額紙幣の廃止を主張している。その理由は2つある。第1は,高額紙幣は地下経済,特に犯罪組織に利用されていることだ。高額紙幣がなくなれば,犯罪組織はかさばる少額紙幣を使わざるを得なくなる。将来的に10ドル札などを重い硬貨に置き換えれば,さらに取引は面倒になる。第2は,マイナス金利政策の浸透を高めることだ。現金が電子通貨になれば,デバイス上にある電子通貨にはいくらでもマイナス金利を適用できる。

 これらの主張は正しくない。まず,紙幣が廃止されて犯罪組織が利用できなくなれば,犯罪組織は他の価値のあるものに移行するだけだ。著者は金塊を持ち運ぶのは不便だとしているが,重さの軽い麻薬の錠剤を通貨の代わりに使えばよい。有力な犯罪組織が協力して錠剤の規格を統一すれば,彼らには貨幣発行差益(シニョレッジ)がもたらされる。現金取引であれば,少なくともシニョレッジは政府(中央銀行)が得る。現金を廃止すれば犯罪は減るという主張は全く当てはまらないだろう。第2の電子通貨へのマイナス金利の賦課は,人々がビットコインなどの他の決済手段に資金を移すようになり,国家や通貨制度への信認が揺らぐことで金融政策の効果が今よりも低くなるだけである。

政策効果か,市民の財産の保護か

 第2の点にはより重要な問題が含まれている。金融政策の効果を発揮させるために,市民から財産を奪い,政府に付け替えるべきだと主張していることである。現金も含めた市民の金融資産にマイナス金利を課すと金融資産は金利分だけ減少する。一方,政府はマイナス金利で国債を発行できるため収益を得ることができ,富は家計から政府へと移転する。マイナス金利政策の結果インフレが生じても,同じ効果がある。技術的な言葉でおおわれているものの,結局はまるで中世の領主のように,国家が市民から財産を奪うべきだと主張しているに過ぎない。読者はこのことに簡単に気が付くため抗議をしているのだが,経済学者は気にも留めないのである。

 その理由の1つに,経済学者は政府の資金で研究活動を行っていることがあるだろう。自分の研究費を出してくれる政府に不利な提言はしづらい。リフレを唱えている日本の経済学者も同じ状況にあるといえるだろう。残念ながら主流派の経済学者には市民の財産や生活を守るという発想はない。

現金は残すべきか

 私は,現金は将来的には廃止されるべきだと考えている。その理由は,市民が日常の取引に使う「媒介物=通貨」には最新のテクノロジーが使われるべきだと考えるためである。よって,少額紙幣を使い勝手の悪い硬貨に戻すということは考えられない。硬貨を重くすればするほど良いというのは,石のお金を転がしていた原始時代に戻れという主張と同じだ。

 通貨に最新のテクノロジーを使うべきだというのは,私たちが取引に際して偽造や詐欺などの恐れを抱かなくてもいいように政府が対策を講じるべきだ,という意味である。紙幣が使われるようになったのは印刷技術が発達したからであるが,印刷は偽造が容易なため,紙幣には常に新しいテクノロジーが採用されている。電子デバイスが発達してきた現在,通貨の新しい形を模索するのは当然だろう。私たちが安心して使うことのできる新しい通貨は経済や社会を安定させる。技術的な問題を乗り越えて新しい通貨の形を提供できなければ,人々は仮想通貨(暗号通貨)など国家が関わらない決済手段に移行してしまうことになる。仮想通貨の盛隆は単に利便性の高さだけでなく,市民の国家に対する不信任を表現していることにも注意が払われるべきだろう。

関連記事

川野祐司

国際経済

最新のコラム

おすすめの本〈 広告 〉