世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.756
世界経済評論IMPACT No.756

トランプ当選:公約は選挙に勝つための方便だったのか

滝井光夫

(桜美林大学名誉教授,国際貿易投資研究所客員研究員)

2016.11.28

 筆者は仕事柄1980年のレーガン対カーターの選挙以来,10回の大統領選挙を観察してきたが,今回ほど異常な選挙はなかったし,トランプ当選という意外な結末にも大きなショックを受けた。まともな政策論争にならなかった3回の大統領討論会も情けないが,トランプ候補の口汚い暴言と虚言,メキシコに費用を負担させて国境に壁を築く,パリ協定,WTOさらにTPPから離脱する,中国に45%,メキシコに35%の関税を賦課するといった,とんでもないトランプの非論理的で場当たり的な主張が有権者に受け入れられるとは,到底考えられなかったからである。

 当選が決まってからすでに2週間が経過したが,トランプは記者会見をまだ1回も開いていない。オバマが当選した2008年には,当選3日後の11月7日には記者会見を開いている。当選後トランプが公に発言したのは,ニューヨーク時間11月9日午前3時の勝利演説,10日に行われたオバマ大統領との会見後の短い見解の表明,それに13日に放送されたCBSのインタビュー番組“60 Minutes”での発言,の3回だけである。しかも,これら3回の場で,選挙キャンペーン中の主張が早くも変化し,骨抜きになり始めている。

 トランプは,クリントンの国務長官時代のメール問題に対して,自分が「大統領になったら特別検察官を任命し,クリントンを監獄にぶち込んでやる」(第2回大統領討論会)と発言していたが,9日の勝利演説の冒頭で述べたのは,クリントンの健闘を称える言葉であった。特別検察官については,その後全く言及がない。翌10日,オバマ大統領との初会見後,オバマ大統領から忠告されて,オバマケア「撤廃」の公約は,「修正」に変わった。既往症のある者にも医療保険加入を認めさせ,26歳までの子供を親の保険の対象に含めるというオバマケアの柱の一部は,「大統領に敬意を表して」残すという。

 続いて13日の放送では,米墨国境に築かれる壁は,一部は「フェンス」でもよいし,強制送還する不法移民の数は公約の1,100万人から200~300万人の犯罪歴のある移民に縮小された。犯罪歴のない移民については,国境警備の状況をみて対応を決めると発言している。また,トランプは選挙期間中,中国は為替操作を行っていると厳しく非難してきたが,14日に行われた習近平国家主席との電話会談では,米中はともにウィン・ウィンの関係に発展できると述べたと報じられている。

 このように短期間で選挙キャンペーン中の公約が変わってくると,公約全体の信憑性も疑われる。選挙中の公約が,大統領就任後の政策にそのまま取り込まれることがないのは歴史の示すところだが,トランプの場合は度が過ぎる。結局,鉄鋼など製造業を復活させるといった途方もない主張と同様に,選挙キャンペーンで繰り返された,無謀な保護貿易主義政策もラスト・ベルトの白人労働者階級を喜ばせ,選挙に勝つための方便に過ぎなかったのではないかと勘ぐりたくなる。

 選挙戦終盤の10月22日に発表された「トランプ候補と米国有権者との契約」には,来年1月20日の大統領就任後,直ちにNAFTAの再交渉ないし脱退およびTPP離脱を発表し,中国を通貨操作国と認定すると書かれているが,選挙キャンペーン中に明言されたWTO離脱,中国・メキシコに対する関税引き上げ,さらに米墨国境に構築する壁については一切触れられていない。

 この「契約」は,「米国を再び偉大な国にするために」,大統領就任後100日間に取られる行動計画を28項目にわたって述べたものだが,当選後発足した政権移行チームの公式サイト http://www.greatagain.gov/ には,「契約」の中身が全く触れられていない。さらに,このサイトに掲げられた12項目のトランプ新政権の政策案ひとつである「貿易改革」(Trade Reform)の項には,具体的な行動計画は何ひとつ書かれていないのである。

 このままでは,選挙キャンペーン中の公約が実行に移されるのか,されないのか,9日の勝利演説で明言された「米国第一主義」がどのように達成されるのか,皆目見当がつかない。もし公約が実行されず,1回目の任期である4年間に,トランプ当選を支えた白人労働者階級の生活に豊かさが戻らなければ,トランプは彼らから手痛いしっぺ返しを受けることになろう。ニューヨーク・マンハッタンの中心部,5番街と56丁目の角に聳える68階建てのトランプ・タワー。その最上階の2つのトリプレックスに居を構えるトランプには,所詮労働者階級の苦しみなど分かるはずはなかった,という結果にもなりかねない。

 なお,トランプはニューヨーク時間で21日夜,ユーチューブ・ビデオを一方的に国民に流し,大統領就任初日にTPP離脱の意図を通告し,米国に雇用と産業を取り戻す公正な二国間貿易協定を交渉すると発表した。TPP離脱は上記「契約」の一項目だが,TPP がなぜ潜在的な大惨事(potential disaster)をもたらすのか,NAFTA再交渉はどうするのか,雇用と産業を取り戻す貿易協定とはどのような協定なのか等々,聞きたいことは山ほどある。しかし,質疑応答を伴う記者会見ではないから,わからないことだらけである。

 一方,今回の選挙では米国有権者の別の側面もみられた。有権者は投票数ではクリントンを選んだという事実である。つまり,敗者のクリントンが得た一般投票数(popular votes)は勝者トランプのそれを165万3,000票(一般投票総数の1.24%)も上回っていたのである。米国の大統領選挙では,一般投票数は選挙結果に全く関係しない。州別に獲得した大統領選挙人数(electoral votes)の合計だけが当落を決める。このため,306人の選挙人を獲得したトランプが当選し,232人にとどまったクリントンが敗北したわけだが,これは何とも後味が悪い結果である(データはDave Leip’s Atlas of US Presidential Elections による。このデータはミシガン州もトランプの勝利としている)。

 一般投票数が相手側より少ないにも拘わらず,獲得した選挙人が多いため勝者となった例は,19世紀には3回(1824,1876,1888年)あったが,20世紀以降では,今回が2000年に続く2回目である。しかし,今回の一般投票数の差は,2000年のブッシュ対ゴアの54万7,000票(一般投票総数の0.51%)の3倍も大きい。もし2000年の選挙でゴアが勝っていれば,イラク戦争はなかったかもしれないと考えると,今年の選挙でもしクリントンが勝っていれば,というような事態にならないことを願いたい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article756.html)

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