世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4005
世界経済評論IMPACT No.4005

アイデンティティをめぐって:「波佐見焼」からの学び

大東和武司

(関東学院大学 客員研究員・広島市立大学 名誉教授)

2025.09.29

 「波佐見焼」,それは長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡波佐見町,川棚町,東彼杵町を主要製造地域とする陶磁器のことを称する。その歴史は古く,1590~1610年頃の陶器にまでさかのぼることができる。1610~1630年頃には磁器生産にも成功していた。「波佐見焼」の始まりは,豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わった大村藩主・大村喜前が1598年帰国のときに連れてきた朝鮮の陶工によって1599年から本格的に始められたとされている。「伊万里・有田焼」も佐賀藩主・鍋島直茂が連れてきた朝鮮の陶工・李参平が有田泉山で陶石を発見したことで始まったとされている。波佐見と有田は,藩は違えど,隣町である。双方の情報交換は,かなりあったと思われる。陶工の移動もあっただろう。人が交流すれば,技術も伝わり共有される。磁器原料となる陶石の発見,築窯技術なども伝播していっただろうし,伝播先で改善・改良などが行われば,それも逆伝播しただろう。さらに,効率性・専門性を求めて分業体制が進めば,さらに交流ないし相互依存関係は強まっていった。

 「波佐見焼」は,1978年2月6日に通商産業大臣(現経済産業大臣)により国の伝統工芸品に指定された。これに先立つ1977年10月14日に,佐賀県伊万里市,武雄市,嬉野市,西松浦郡有田町を主とする「伊万里・有田焼」が第一弾として指定されたが,波佐見焼もほぼ同時期だ。その認定条件は,主として日常生活用品,主要部分の手作業,伝統的な技術・技法,伝統的な天然素材原料の使用,一定地域での産地形成などである。

 ふたつの陶磁器産地は同じ肥前である。1630~1680年頃には,中国が明から清への移行期のおける混乱・内乱によって,陶磁器の輸出が困難となり,それに代わって東インド会社から求められたのが肥前一帯の陶磁器であった。これらは,肥前焼とも呼ばれることもあったようだが,伊万里港を国内外への積出港としていたために,江戸時代までは総称として「伊万里焼」と呼ばれた。白磁に青の模様の朝鮮技法の染付磁器,1640年代に生まれた濁手の乳白色の生地に赤を主調とした柿右衛門様式,1688年には赤や金彩がはいる金襴手様式,さらには鍋島藩直営の御用窯で献上品として作られた赤・青・緑の三色を基調とした「色鍋島」(鍋島藩窯様式)などと,欧州また国内などでの高い評価とともに,その技術も進歩していった。

 その後,「有田焼」と称されるようになっていったのは,明治に入ってである。1870年代に欧州での万国博覧会出品の際に,原産地を明確にする動きもあって,磁器の産地名「有田」が広く知られるようになっていった。国内でも鉄道開通によって有田から周辺の陶磁器が出荷されるようになって,その名は広まった。

 ところで,こうした過程のなかで,藩の保護,藩の政策の影響なのか,伊万里・有田地域は,高級品(ハイエンド),いわは美術工芸品の方向に進展し,波佐見地域は庶民向け大量生産品(ローエンド)との色分けが生まれてきた。江戸時代の「くらわんか碗」は,波佐見焼の安価な日用食器として,その代表例である。有田地域では対応できない需要,とくに日用品需要を波佐見地域が補完したといえる。波佐見には世界1位2位3位という巨大な登り窯がある。最大のものは,窯は奥行5m,幅7~8m,階段状で39室,170mにも及んでいる。細やかな手のかかる物はつくれないが,それが大量生産を可能にした。

 そうしたなか,さらに,波佐見地域の窯で作られた生地が有田地域の別の窯で絵付けされるという分業体制も進んできた。波佐見地域は,大量生産で培った成形技術が活かして,焼成前の白い器である生地を生産していった。それを有田地域の窯元に提供して,絵付師がそれ特有の絵付け技術を活かし「有田焼」に仕上げた。また,波佐見地域でつくられた完成品までも「有田焼」のラベルで出荷されていた。こうした仕組みが長く近年まで続いてきたが,2000年代に産地偽装表示問題が起こった。

 代表的なのは,2004年の全出荷量を超える市場集荷量の「魚沼産コシヒカリ」,香川県産小麦粉を使っていない「讃岐うどん」などの産地偽装表示問題である。つまり,「有田焼」としての市場集荷量に比して,有田の出荷量が少ないという問題である。

 産地,原産地問題が顕在化するにつれ,生産者である「有田」にアイデンティティ確立の動きが生まれた。となると,「波佐見焼」ブランドを構築せざるをえなくなった。波佐見焼のアイデンティティ確立である。個性の探索である。その過程は,波佐見焼振興会編(2018)『波佐見は湯布院を超えられるか』長崎文献社,児玉盛介ほか(2021)『笑うツーリズム』石風社に詳しい。

 何者であるかを探し求めることは,歩き続ける遍路に似ている。それは,自分自身に向き合うことに他ならないだろう。自己探求をしていけば,そのなかで失敗とか弱さと向きわないといけない。それを乗り越えていくタフさも必要になってくるだろう。その過程で得られるいろいろな気づきが次へのステップになるし,ジャンプにもなるのだろう。

 「波佐見焼」ブランドは,急速に浸透していった。例えば,波佐見焼陶器市は,「波佐見焼を天下に知らしめる。」として,1959年に始まっているが,1988年の入場者数6万人が,2000年20万人弱,2017年32万人強となっている。それは,「関係人口」,「共感人口」を増やしていく過程の現われである。「波佐見焼」のデザインなどは,顧客の動向に細やかな目配りする必要ある。となると,波佐見のなかだけでは解決できない,東京にも国外にも広くアンテナを張り巡らす必要があるし,またその情報を具体化する必要がある。窯元と顧客を仲介する存在である。単なる物流の仲介でなく,相互をつなげて大きなものにしていくプロジューサーとしての役割が担う人材である。

 開放性をもって情報を精査し,これはと決めたことを深耕していく力,もちろん一人だけではなく,仲間とともに。そうしたことの大切さをあらためて「波佐見焼」から学んだ。

*本稿執筆にあたって,2025年9月4日に訪問した西海陶器株式会社会長・児玉盛介氏に心よりの御礼と感謝を申し上げたい。ただ,あり得べき誤記はもちろん筆者の責任である。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4005.html)

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