世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
観光産業と「コモンズの悲劇」
(拓殖大学国際学部 教授)
2020.08.03
今夏は新型コロナウイルスの影響で海外に出ることが難しいが,ここ数年,夏になると研究でウランバートルに行くのが恒例となっている。ウランバートルの短い夏は冷涼で,郊外に足を延ばすと,牧草の丘陵地が地平線まで続く美しい風景を見ることができる。点在する羊やヤギの群れは,この自然の恵みを一身に受け,ストレスなく放牧されている。モンゴルの遊牧は,その牧養力を超えないよう,頭数に配慮しながら子々孫々受け継がれてきたのである。
しかし近年,国際的なカシミヤ需要の増加によって,ヤギの飼育比率が多くなっている。ところが,ヤギは野草の根まで食べてしまうため,荒廃地が年々目立つようになっているのだという。生物学者ギャレット・ハーディンが1968年に発表して有名になった「コモンズの悲劇」と呼ばれる現象である。彼によれば,この悲劇を回避する方法は,コモンズ(共有地)の所有権を明確にすることだという。私有化されれば,自らの土地を荒廃させるような過放牧は行われにくいというのである。
翻ってみると,今般,新型コロナウイルスによって多大な影響を受けている観光産業もまた,「コモンズの悲劇」と隣合わせの産業である。観光産業が扱う観光資源には,レジャー施設や遊興施設のように人工的に作られたものもあるが,その多くは,自然,風景,温泉,伝統文化,歴史ある遺産や風土,食文化など,有形無形を問わず人類の共有の資産であるから,広い意味ではコモンズと言えよう。
国内外の移動が容易になった1990年代以降,観光産業は世界的にみても,新たな成長部門の一つと目されるようになった。ドイツ,スイス,カナダ,アメリカ(カリフォルニア州,ニューハンプシャー州など),オーストラリア,ニュージーランドなどでは,DMO(Destination Management Organization, 観光地域づくり法人)が中心となって,消費者目線に立った積極的な観光誘客や旅行消費の拡大が推進されてきた。わが国も観光立国推進基本法(2006年),観光立国基本計画(2017年~4年ごと)が策定され,遅ればせながら,日本版DMOの設置に向けた動きも活発になっている。そこには,観光資源を有効活用し,観光産業を経済成長の牽引役にしようとする狙いがあるが,DMOなどの観光政策では,欧米の後塵を拝しているのが現状だ。
しかし,観光資源をコモンズとして考えるならば,「コモンズの悲劇」を回避するために,観光地への無制限のアクセスによってもたらされる資源荒廃や枯渇にも目を向けなければならない。例えば,訪日観光客にも人気の富士山を考えてみよう。観光資源として富士山に注目し,訪日観光客に積極的にプロモーションすることは,観光産業や地域経済に大きな経済的利益をもたらす。他方,観光地の許容能力を超えて観光客を受入れれば,駐車場や宿泊場所の不足,トイレやごみの処理問題,騒音問題といった新たな問題を引き起こしかねない。いわゆるオーバー・ツーリズム問題の発生である。確かに,観光客が増加すればするほど,それによって生計を立てる人々や地域は潤う。しかし,観光資源は確実に荒廃していくことになる。観光地としてのコモンズから得られる恩恵に,正当な対価を支払わず過剰摂取し続ければ,そのツケは将来世代が支払うことになる。経済的な側面のみを考えて観光をプロモーションすれば,その観光資源に関連する企業は,それぞれ自社の利潤の最大化のみを考えるため,「コモンズの悲劇」に目が向きにくい。だからといって,観光資源はハーディンの言うように私有化することも難しい。
コモンズとしての観光資源。その保全は誰が担うべきなのだろうか。
本来,観光産業は,成長のためのアクセルと資源保全というブレーキを,同時に踏みながら進まねばならない産業なのである。しかし,ここにきて「成長の牽引部門」と過剰な期待が寄せられて,「観光地に行ってこい」という政策も推進されている。この成長アクセルをベタ踏みした政策は,長期的には観光地というコモンズを荒廃に導く可能性が高い。観光産業を発展させるためには,観光客を誘致する政策だけではなく,「観光地を守れ」という政策も重要でなのである。それは繰り返しになるが,観光資源がコモンズとしての側面を持っており,成長と資源保全の相克を抱えて発展する産業だからである。そのためには,単に観光資源を利用する企業を支援するのではなく,観光資源を守る「管理人」としての役割を持った観光産業の育成が重要である。
新型コロナウイルスによって世界の観光産業が苦境に立たされている今,観光資源に対して業界がどのように向き合うべきか,我々は,そして政府は,どのように観光産業を支援していくべきか,重大な岐路に立たされている。
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茂木 創
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