世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.894

電通過労死事件とグローバル人材(2)

榎本俊一

(中央大学大学院 講師)

2017.08.14

 電通の髙橋まつりさんが亡くなって二年目が過ぎようとしている。髙橋さんの死を受けて,厚生労働省が労働基準法違反の疑いで電通を刑事告発,それを受けた検察庁の略式起訴は東京簡易裁判所により正式裁判に変更され,非公開でなく公開の場で刑事責任の有無が争われることとなった。電通も労働環境改革本部を設置し過労死防止に向けた改革をとりまとめ,2019年までに労働改革を完了するとしている。

 安倍内閣は目睫に迫った労働人口減少に備えて「一億総活躍社会」を掲げ,女性の活用,ライフ・ワーク・バランスの充実,同一労働・同一賃金等の改革を進めてきたが,高橋さんの悲劇は労働時間短縮等の「働き方改革」を大きく前進させることとなった。官邸に設置された働き方改革実現会議は,時間外労働を月45時間かつ年360時間に原則制限し,例外として単月(休日労働を含め)100時間未満であれば時間外労働を認めるものの,この特例は年6回を上限として,かつ,2ヵ月,3ヵ月,4ヵ月,5ヵ月,6ヵ月の平均で,いずれにおいても(休日労働を含め)80時間以内を満たすべしとの改革案をまとめた。

 「時間外労働が月100時間未満であれば過労死ラインではない」とも読める点には議論の余地があるとしても,若い女性の自死という悲劇が,欧米社会で異様視され「karoshi」という単語までできた過労死問題の解決につながることは(不謹慎かもしれないが)「不幸中の幸い」であろう。だが,しかしである。政府は,この時間外労働の上限規制とパッケージで「高度プロフェッショナル制度」を労働基準法改正案として提出するという。

 高度プロフェッショナル制度とはいわゆる「残業代ゼロ法案」であり,2015年4月に国会提出されたものの,労働組合,野党,メディアの強い反対により審議入りもできず廃案に追い込まれている。原案では,金融商品開発・ディーリング,企業・市場分析,事業コンサルテーション,研究開発など「高度の専門的知識等を必要とし,その性質上従事した時間と従事して得た成果との関連性が通常高くないと認められる業務」に就く年収1075万円以上の者は,労働基準法に拠る労働時間,休日・深夜の割増賃金等の規制対象から外すとする。

 法案が成立すれば,年収1075万円超の金融ディーラー等には残業代・深夜勤務手当の支払が不要となり,残業時間の上限規制も撤廃されることとなる。金融ディーラー等の残業時間は通常月100時間を超え150時間程度に達することも珍しくなく,いわゆる「過労死水準」にあるが,髙橋さんの死と引替えに導入される時間外労働上限規制と抱き合わせで,政府が成立を目指す高度プロフェッショナル制度では,企業は彼等に残業代を支払うこともなく「無定量無制限」に働かせることも可能となる。

 2015年当時の政府説明では,制度対象者は雇用者の3%未満に過ぎないという。しかし,日本経済団体連合会は「ホワイトカラーエグゼンプションに関する提言」(2005年6月)で「400万円(又は全労働者の平均給与所得)以上」を対象とするとし,塩崎・厚生労働大臣(当時)も日本経済研究センターの経営者向け講演会で「小さく生んで大きく育てる」戦略で「とりあえず(法案を)通す」と明言したことを踏まえると,残業代もない「無定量無制限」労働をホワイトカラー全般に対象を拡大する意図が疑われても仕方がない。ましてや,これを髙橋さんの死と引替えである時間外労働上限規制と抱合せで成立させることは,悪質な冗談と言わざるを得ない。如何なものだろうか。

 私は「電通過労死事件とグローバル人材(1)」で,企業が超人ではなく普通人により支えられる以上,普通人が健康で充実して働ける職場を築かなければならないが,企業のイノベーションや飛躍的成長が「ダントツ人材」により担われるのも事実であり,ダントツ人材が誕生し活躍できる場を作れなければ,日本企業は閉塞状況を打破できないと論じた上で「ダントツ人材は全社一律の働き方を求める中から誕生してくるだろうか」と疑問を投げかけた。現在の日本が求める「グローバル経営人材」もダントツ人材の一つである。

 1980年代央以降,円高を契機に進められてきた日本製造業のグローバル化はほぼ完了し,今や課題は,如何にグローバル・ネットワークを統合運用してグローバル競争に打ち勝つかに変わった。グローバル戦略に舵を切った武田薬品が2014年以降社長,取締役に海外人材を登用したのは,ネットワークを運営できる者が日本社員に見当たらなかったためである。武田薬品では,新卒社員を横並び競争させ人材を長期選抜してきたが,それではグローバル経営のできる人材は育たなかったという苦い認識がある。東芝は国際M&Aに精通しない経営陣が原子力部門で大博打を打ち,現在,国際競争で一位二位を競うメモリ事業を売却しても企業存続が覚束ない事態に陥っている。日本のキャリア・システムではダントツ人材は育成できないのだろうか。

 私は前回述べたように,高橋さんの悲劇を避けるには,外形標準的な基準により全社一律・画一的に「働き方改革」を進める必要があると信ずる。しかし,欧米企業ではエリートと非エリートが選別され,5%に満たないエリートが日本人以上の長時間労働と仕事中心主義の生活に耐え,代償として短期間の昇進昇級とグローバル経営参画を認められることで,ダントツ人材の育成・登用を図ってきた。日本企業では,幹部候補として採用した新卒社員を長期間にわたり昇進・給与面で平等に取り扱い,経営人材・専門人材を長期選抜・育成してきたが,このシステムの下で,さらに各人の仕事に量的にも質的にも上限を一律設定した場合,欧米エリートに対抗できるダントツ人材は生まれるだろうか(もっともダントツ人材ライフが幸せか否かは別途問題となることは認める)。

 高度プロフェッショナル制度は,日本企業の国際競争力の強化が狙いであるが,発想が1990年代後半以来のリストラの延長上にあり,人件費の一律カットに主眼がある。むしろ働く人間の消耗・疲弊につながりかねず,日本の隘路を打破するダントツ人材の活躍の道を拓く政策には見えない。ダントツ人材を育てるには,日本型キャリア・システムそのものを見直す必要があり,日本企業もエリートと非エリートを分ける欧米企業型に接近せざるを得ないのではないか。そして欧米エリートも超人でない以上365日24時間働けるわけではなく,前日の労働と次の日の有働時間に一定の休業時間を義務づけるインターバル規制等により守られている。日本も,欧米の知恵に学ぶことで,ライフ・ワーク・バランス改善と企業競争力の維持向上を同時達成できるのではないだろうか。

 政府が時間外労働上限規制と高度プロフェッショナル制度を抱合せ提案する意図として,後者単独では成立見込みが到底ないことから,前者とのバーター取引により成立に持ち込もうとしているのではないかと指摘する向きがある。これが真実であるとすれば,「朝三暮四」を地で行くものであろう。本コラムを読む人には説明不要かもしれないが,中国春秋時代に宋の狙公(「猿飼い」の意)が飼猿にトチの実を与えるのに「朝に三つ,暮れに四つやる」と言うと猿が少ないと怒ったため「朝に四つ,暮れに三つやる」と言うと猿はたいそう喜んだという。政府はこうしたトリッキーなことにエネルギーを費やさず,キャリア・システムを含む日本の雇用システムのあるべき姿を国民に正面から提案し,ライフ・ワーク・バランス改善と企業競争力の維持向上を同時達成することが髙橋さんの死を無駄にしない道なのではないだろうか。

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