世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.849

公道カートはアベノミクスのレガシーか(3):「無脳社会,無責任社会,無反応社会」其の一

榎本俊一

(前東北大学大学院 教授)

2017.05.29

 前回(2)において,国土交通省・警察庁は,公道カート事業が「公道を走行するゴーカート・レンタル事業」ではなく「公共財である公道をゴーカート場としてゴーカート事業を営む事業」と理解できず,「事故さえ起こさなければ(我々に規制しろとか五月蠅く言ってくる奴はいなくなるから)自由に事業を営んで差し支えない」と「お墨付き」を与えようとしているのではないかと指摘したが,現実は指摘のとおり進行している。

 まさに(2)の掲載された5月22日に,警視庁は(警察庁の指示を受けて)東京都内の(公道カート)レンタル関連事業者5社に対して安全対策強化を要請,外国人観光客への交通ルールの説明徹底,ヘルメットやプロテクターの着用を呼び掛け,走行経路での駐車場確保や,周囲への騒音対策も求めている(共同通信社)。国土交通省は5月内の対策取りまとめの考えを示していたが,石井啓一大臣が23日の閣議後記者会見で「シートベルトの設置や他の車両からの視認性向上などの対策について,(車両安全対策検討会)来月中に検討をスタートし,できるだけ早く結論を得たい」と述べ,遊園地のゴーカートのような車体に方向指示器などを付けた公道カートは一般道を走行でき,外国人観光客に人気が高いことから「適切な安全対策を講じることは,観光振興を図るためにも必要だ」と語ったという(時事通信社)。

 前回(2)の副題は「もうかればいい,外国人がカネを落とせばいい,O-Mo-Te-Na-Shi」だが,石井大臣の発言は副題の精神を地で行くものである。「観光振興を図るためにも必要だ」と全面的肯定しているところを見ると,公道カートの「関連レンタル事業者」が同省の「VISIT JAPAN大使」に任命され,観光庁の審議会委員として活躍する日も近いのかもしれない。彼には,公道カート事業の本質が公道カートのレンタルではなく,公道を施設利用したゴーカート事業であることの認識はない。また,公道をゴーカート場にすることで,これまで多大な努力を払って良好な住宅街・ビジネス街として整備してきたエリアの都市環境が深刻なダメージを受けることを思い至るだけの想像力もないようである(私は「ゴーカート場に住みたい」とか「丸の内のオフィスをゴーカート場に映したい」とか言う人を見聞きしたことがない)。

 事業者がゴーカート場を設置する場合には厳格な安全対策と騒音防止策を講じた上でなければゴーカート事業を営めないが,公道カートの場合,所謂「レンタル事業者」は公道走行可能なカートを普通免許所有者(相当者)にレンタルするだけで「ゴーカート場」を開業できる。国土交通省は実態を知らないのだろうか?レンタル客は通常集団で(多い場合には20台程度)で「公道」を走行し,レンタル業者が設定した「公道」のルートを,レンタル事業者が設定した時間内で,かつガイド付きで駆け回っており,この「公道カート」ビジネスは10時から22時まで毎時定期的に催行されている。ゴーカート専用場を「公道」に置き換えた以外は,まさにゴーカート事業である。石井大臣は「公道カートは外国人観光客に人気であり,観光振興のためにも必要」であると言うが,優良な住宅・ビジネス街の交通安全・生活環境を劣化させてまで,一部事業者の収益にしかならないゴーカート事業を国家公認とすることは如何なものだろうか。もしかすると石井大臣云々ではなく,国土交通省官僚が国家的見地から大所高所からの判断を行う大臣に対して十分な情報なり判断材料なりを上げていないのかもしれない。

 実は石井大臣が大切に思う,同じ外国人観光客が「公道をゴーカート場としてまで外国人観光客を呼びたいのか」と呆れている。京都は観光立国日本の大看板の一つであり,外国人宿泊者数はVisit Japanキャンペーンの始まった2003年の45万人から2014年には183万人に増えたが,2016年には316万人と爆発的に増えるなど外国人観光客を呼び寄せて止まない。この京都においても,公道カートのレンタル事業が開業し,「公道カートで一味違う京都観光」「古都『京都』の道がレース場に」をキャッチフレーズとして公道ゴーカート事業を本格展開しようとしている。彼等の事業の本質が公道を走るゴーカートの「レンタル事業」ではなく,公共財である公道をゴーカート場として活用した「ゴーカート事業」であることは,「公道カートで走れば普通の道路が,まるでレース場のように!!」を誘い文句としていることからも自明であろう。東京都内で公道カート事業を営む者によれば「都心を爆走する喜び」というのが公道カートの魅力だそうだが,「古都京都を爆走する喜び」ということなのだろうか。どうもすべての外国人観光客が古都京都を爆走したいと思っているわけではないようで,「公道をゴーカート場としてまで外国人観光客を呼びたいのか」という絶句につながっているらしい。

 京都の魅力は,日本文化をこよなく理解し,日本を愛するドナルド・キーン氏が「和樂」2015年4月号(小学館)で語るように,京都が古くから都として栄え,伝統的な文化の色濃く残る街であり,海外から見た日本のイメージをそのまま維持している数少ない街だからであろう。歴史ある町並みと,美しく整った景観,由緒ある寺社仏閣だけでなく,豊かな自然にも恵まれた街を廻遊すると,今でも生活の中にお寺の鐘の音や着物姿がごく当たり前に存在していることを発見し,日本の中でも数少ない,昔ながらの日本文化が息づいている様を体験することができる。キーン氏は「京都は,街そのものが日本の文化です。川が流れ,花が咲き,秋には紅葉や銀杏が色づき,四季折々の味わいがあり,まだまだ美しい風景がたくさん残っています,昔のあたたかい感じがあります。今は日本国中探してもそういう街は少なくなりました。あるいは京都人以上に,外国人のほうが京都の風景に魅力を感じているかもしれません。かつて京都タワーができたときも,反対運動をしたのは外国人でした」と語る。京都をゴーカートのレース場のように楽しみませんかという公道カート事業者は「カーナビを標準搭載。古都の町の楽しみは,狭い路地にあります。公道カートなら普段車で味わえない新しい京都の魅力に触れられます」とするが,はたしてドナルド・キーン氏を始めとした京都を愛する外国人観光客と相容れるだろうか。

 今回の公道カート問題に関して国土交通省・警察庁が最重要視している「事故を起こさない」という観点からは,可能な限り多数のゴーカートで車列を組み,先頭と最後尾に四輪自動車を走らせてガートとすることがベストである。現実に「公道カート事業者」が行っていることだが,10〜20台のゴーカートが業者の四輪自動車に先導され,最後尾にも業者の四輪自動車が立ちはだかりガードしている。国土交通省の自動車規制の発想は「単車」であるが,原動機付き自転車一台であれば騒音規制をクリアしても複数台,10数台ものゴーカートが集団で走行した場合の騒音は尋常ではない。国土交通省の事業者に要請する安全を追求すると,集団走行が理想である。こうした集団が京都を「爆走」するのだろうか。京都は観光地としての面だけでなく住宅街・ビジネス街としての面も併せ持つが,ゴーカート集団が,マンションが立ち並び,人々が暮らしを営む街をレース場と見立てて走り回るわけである。京都の狭い道で住宅・マンションから1〜2メートル程度のところを朝から晩までゴーカートが集団走行した場合の住民の苦痛は物凄い。住宅街はもともと交通量が少ない「静穏な」場所であるが,ゴーカートの集団走行上の安全の観点からは理想的ルートである。かつ夜や休日など車通りの少ない時間や日を選べば,そもそも車がいないのだから,乱暴な運転でも,爆走しても安全である。

 これは京都だけの事態ではなく全国規模で拡大拡散しつつある問題である。インターネットで確認できるが,加速度的な勢いで全国の公道がゴーカート場化しつつある。これだけの公道を走らせるに足る台数のゴーカートを認可してきたのは陸運局すなわち国土交通省であるが,石井大臣にはこうした情報が十分に上げられているのだろうか。某中央官庁の優秀な官僚の方から,かつてこう聞いた。「役所では矮小化の技法が重要だ」「いかなる問題も全体として捉えた場合,まず問題解決できる権限とリソースをもった組織はないし,解決を請け負ったら結果責任を問われる」「矮小化の技法とは,問題を全体として捉えず,自己の組織が対処せざるを得ない部分に限定し,部分化された問題に解っぽく見える解を提示して,後は堂々としていることだ」云々。その話を聴いた時,私の脳裏にとっさに「無脳,無責任,無反応」という言葉が浮かんだ。有能だが真の思考がない意味で「無脳」,問題の矮小化により責任を回避し「やっている感」で誤魔化す点で「無責任」,なんと批判されようと自己のフィールド外は無視する「無反応」振りにガッカリしたのを覚えている。マスコミは官僚批判が好きだが,「無脳,無責任,無反応」は官庁だけでなく政治家,マスコミ,学者,社会にも共通の現象ではないだろうか(社会には私も含まれている)。次回「『無脳社会,無責任社会,無反応社会』其の二」では,日本社会全体に「無脳,無責任,無反応」が如何に拡がっているかを示し,次々回(最終回)で「公道カートはアベノミクスのレガシーか」を論じたい。

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